2012年3月11日日曜日

東日本大震災より一年

昨年の東日本大震災から一年。

東日本大震災に被災された皆様に改めて心よりお見舞い申し上げます。
被災地の皆様に、一刻も早い復興を心よりお祈り申し上げます。

今回はこの震災当日の僕の出来事を記したいと思います。
震災時の個人の行動記録として見ていただけると幸いです。

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僕の勤める会社は都内ビルの2フロアに入居していて、
自分のデスクがあるフロアは2フロアある内の上階にあります。
ちなみにこのビル自体は消防法上の高層建築物にあたります。

2011年3月11日、この日はちょうど社内のレイアウト変更を行う日でした。
いつものように9:30に出勤し、自分の仕事をある程度片づけて、
10:30頃からレイアウト変更作業を始めました。

2フロア全体のレイアウト変更が必要なので、
作業は什器備品の上階下階のフロア間移動を伴います。
数人でエレベーターを使用してモノを運ぶのですが、
大きなキャビネットなどをエレベーターに入れるのは非常に手間取りました。
長い時間エレベーターを作業で占用してしまったので、
他フロアに入居している会社からは「エレベーターを早く使わせて下さい」と
クレームも入るありさまでした。

また、モノによっては一度はエレベーターに乗せたものの扉か閉まらず、
止むを得ずビル外側の非常階段を使って運んだ什器などもあったのですが、
その非常階段での上げ下げもまた非常に大変で、
階段の踊り場では一時的にキャビネットを仮置きするなどしていました。

これらすべて地震3時間前に行った作業です。
もし午前中でなく午後に作業していら如何なっていたことか・・・。

お昼前までには必要な什器備品のフロア間移動と設置がすべて終わったので、
昼食休憩の後、13:00からはレイアウトに書類などを収納する作業を行いました。
書類の収納は業務の資料検索の効率にかかわるので疎かにせず、
一つ一つ丁寧に書類を収納整理し、14:15頃には一区切り終えていたと思います。

作業を終えて一息付き、自分のデスクで通常業務を始めて間もなく、
グラグラとビルが揺れました。
その揺れ方が尋常ではないことは揺れ始めてすぐ理解しました。
この時に自社の2フロア全体に居たのは十数名で、
うち自分のデスクがある上階フロアには僕を含めて6名が居ました。

僕は一応、会社の防火管理者なのですが、この時とっさにとった行動は、
避難路確保のためのビル外側の非常階段に繋がる2つの非常口扉の開放でした。
ビルが歪んで扉が開かずに逃げられなくなってはどうしようもないと思ったのです。
激しい揺れ中、身がよろけそうにながら非常口へ辿りつき、扉を開けました。
そして非常口の外に出て避難路となる非常階段が正常に使用できるか確かめながら
そのまま下階に行って、そのフロアの非常口扉も外から開けました。

非常階段からは、眼下の街の様子が分かります。
会社の正面には皇居につながる国道があるのですが、
車は異変に気付いてかやや減速気味に走っていて、
歩道を歩いていた人は立ち止まっていて不安そうに辺りの様子を窺っているようでした。
電柱や信号機が激しく揺れ、周囲の立ち並ぶビルも目に見えて揺れています。
点在する古いビルからは砂埃のような煙も出ていました。
あまりに激しい揺れだったので、会社のビルはひょっとして倒壊するのでは?と、
この時始めて恐怖を感じました。

地震の揺れは収まることなく、いっそう激しくなってきて、
上階フロアの方でガラガラ、ドスドス、ガチャーンと什器が倒れる音がしました。
この時自分は上階フロア非常口扉付近に戻ったのですが、
フロア内の様子はパーテーションで遮られているので非常口からは全く見えません。
激しい揺れと什器が倒れる音で身がすくみました。

上階フロア内に居たのは僕以外の5名でしたが、
いつの間にか非常口には3名が避難して来て、
残り2名がフロアに残されていました。
僕はフロアの中に残った人の安全が気掛かりだったので、
激しい揺れの中、フロアに入ってパーテーションの向こうを覗きました。
しかしそこに見えたのはフロア内通路を塞ぐように倒れた設置したばかりの什器や、
つい先ほどまで丁寧に整理収納したはずの書類の散乱の数々でした。
実はこの日は転倒防止の留め具を用意してなかったのです・・・。

フロア内の通路がこれら転倒物で塞がれているうえ今にも倒れそうな什器もあって、
フロア奥深く入るのはあまりに危険だったので僕はそれ以上の立ち入りを断念ました。
そこで中に居た人に向けてとっさに叫びました。
「棚が倒れるから気を付けて~!!」「揺れが収まったら逃げて~!!」と。
何度も何度も叫んでいました。

地震の揺れは非常に長く感じました。あまりに長い揺れでしたが、
その揺れもだんだんと弱くなり、残った什器の転倒の恐れもなくなってきたので、
ここでやっとフロアの中に入って残り2名の無事を確認しました。
2名は机の下で安全を図っていたとのことでした。
そして皆でそのまま非常階段を駆け下り、屋外の道路に出ました。
周囲のビルからも続々と人が退去してきて、ビル倒壊の恐怖心からか、
皆でビルから距離をとって国道の中央分離帯の植込みまで避難しました。

屋外の道路の上でもその後の弱い余震を何度か感じましたが、
身の回りの品をだれも持ってないことに気付きました。
避難するのに夢中だったので、僕は携帯電話までも職場に置きっぱなしでした。
このまま何も所持してなかったら帰宅するのもままらなないと思ったので、
ビルのエレベーターが止まっているのを確認し、
安全を見計らって非常階段を駆け上がってフロアに戻り、
カバンやコートなどの身支度品を用意してまた外に出たりと、
何度か往復したのを覚えています。

最初に屋外に避難・待機で過ごしたのは30分~1時間位だったと思いますが、
正確な時間を覚えていません。
16:00頃にはビル内のフロアに戻っていたと思いますが、
しかし余震のたびに恐怖で皆で非常階段の方へ退避するなどしていました。
フロア内は什器や書類などが酷く散乱していましたが、
片づけても余震でまた転倒・再散乱の恐れもあったので、
これらの片付けは室内の安全確保を中心とした必要最低限にしました。

幸いなことに電気・通信・水道などは通じていたので、
妻と連絡を取るべく携帯電話で掛けましたが、案の定繋がりませんでした。
そこで会社固定電話で掛けると7回に1回くらいの割合?で繋がり、
妻と子どもの無事を確認しました。
その後は自分の携帯バッテリー残量が心配だったので
会社のPCから妻の携帯にメールで連絡を取ったのですが、
PCのインターネットやメールは通常の状態で使えました。
山手線が運転を見合わせている情報を知ったのはこの頃で、
僕はここで今日は家に帰れないことを覚悟しました。

あれこれする間に皆少しずつ落ち着きを取り戻してきたところ、
PCモニターでテレビ受信ができる機器が社内にあることに気付きました。
さっそく皆でテレビをつけて見たのですが、最初に画面に飛び込んできたのは・・・、
発令中の津波警報とあの恐ろしい津波の映像でした。
家や田畑や車を飲み込む津波の映像は非常に鮮明に強烈でした。
改めて尋常ではない事態に置かれているという事に気付くと同時に、
映像を見て言葉を失いました。
ニュースでは「福島にある原子力発電所が・・・」という言葉も聞きました。
だれも言葉にしませんでしたが津波と原発を皆誰もが心配していたと思います。

そして夕方になった頃、今夜の食料が心配になったので
近くのコンビニに買い出しに行きました。
パンやおにぎりは既に売り切れていて、
カップラーメンや総菜・おつまみなどがまだ残っていたので、
翌朝分までの全従業員2食分をまとめて買って、皆で社内で夕食を取りました。
そしてだれも帰宅できず待機のまま深夜を迎え、インターネットとテレビをつけっぱなしのまま、
椅子やダンボールなどを利用して各々就寝するのですが、
緊張状態で浅い眠りの中、余震や緊急地震速報のたびに皆で起きてしまいました。

結局、そのまま翌朝を迎えました。
鉄道再開の情報が続々入っていたので、社内の各々が帰宅して行きました。
自分の帰宅経路の鉄道情報も随時インターネットで確認していたのですが、
経由するターミナル駅が大勢の帰宅者で大変な混雑になっているとの情報が入っていたので、
様子見のためすぐには帰宅せず、社内に最後まで一人で残りました。
結局、会社を出たのは11:30頃になっていました。

帰宅の際は、無用な混雑に巻き込まれるは避けたかったので、
混雑情報が入っていた普段経由するターミナル駅では敢えて下車せず、
平時の通勤では一度も使った事のない迂回する路線で帰ったのですが、
お昼過ぎにもかかわらず電車内は帰宅者らで満員でした。
電車に乗っている途中には川を渡るための鉄橋が幾つものあるのですが、
その橋を渡るたびに「地震で橋が落ちませんように」と心の中で何度も祈ってました。

自宅に無事に帰宅したのは13:40頃でした。
家族が皆無事だったのが、まず最初に何より嬉しかったです・・・。

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